・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
南花澤及北花澤、花の木自生地
愛知川駅又は五箇荘関から各東七軒、東押立村大
字北花桜の島地には一株の雄木があり、根木の周
離五米、高さ一七米半、目通周囲二米半、約三米
の高庭にて六本の太い枝に分かれて居る、また附
近南花蘆の村社八幡神社境内にも一株の雄木があ
り、目通周囲三米半上部は二本の太い枝に分かれ
て居る。
源氏益発生地
第三番発生地
守山県所在地物部村から等山町に跨り古来有名な
源氏益が蕃殖する。
鎌掛谷石楠花郡落地
日野駅の東南約六料、蒲生郡鎌掛村続掛谷にあり
山麓まで自動車の便がある耶落組川の上流一帯海
抜三二〇米から四〇〇米に及ぶ恋屋に繁茂しその
数五万株に及ぶと云ふ。樹幹の高さは普通二米内
外であるが、中には高さ四米に及び基幹から十数
木の小路を出し基幹の直径十六棟余に株張八畳敷
にも拡がつてゐるものもあり、四月下旬から五月
中旬にかけて、滿山の石楠花研を発うて美観を星
す。
西大路の左巻粧
日野駅の東九科西大路村大字熊野にある。種子の
外数は長隨図形を呈し長さ約四、五種、約五十本
の概線を現はして総て左巻をなすものと悉く右巻
となるものとあつて各二個體によつて方向を異に
する左衛右巻は一の體の主輔より見た巻方を云ふ
植物学上の用語で実通の場合に於ける左巻、右巻
とはその方向が相反する。
廃小菩提寺石造多実塔及石仏
石部縣の東北約二料岩根村菩提寺西端の岡山小字
西出の山林竹藪中にある。南都興福寺の別院であ
つた小菩提寺の伽藍地で、寺は元鶴年間兵火に罹
りてのち再興せず、道址に石塔及石佛を遺存して
ゐる、塔は花園岩製で高さ四米半、現存の石造重
暦多実塔婆中の最高のもので東南面して建てられ
當面の初層細部と基石面に左の銘文がある。
仁治二年辛丑七月日額主僧良金施主日置氏女
仁治は四条天皇御代の年号である。この塔は従来
普念場と呼ばれ即海禽堪で衆僧の納骨塔として造
られ場背面の礎石に茶堤せる遺骨を投入するため
に穿たれた孔を存してゐる。石佛は後背を有する
地頭像三縣左右及変座に四縣の像ある開魔王像一
卿あり何れも花樹岩の半肉彫で、閻魔王像には
「○林巳巳巳及巳巳巳阿弥陀仏権大僧都家門法印」
等の文字が刻されてあり、室町時代の製作であ
るゝ
三雲村美松自生地
石郡隣の東南、三雲駅の西共に三料、三ヶ村大字
平松の美松山にある。山は古生屠の角岩から成る
小山で美松は西北面から東北面に亘る部分を除き
東南側から西南側にかけ山腹約百アールに亘つて
発生し、樹高六米乃至一米更に綾小なものもあ
る。何れも旅形をなして庭園を見る軍芸松と一致
し築針は長短一ならず松實は概して小さく赤松の
変形と考へられてゐる。
紫香楽宮址
貴生川駅の西南約一四料雲井村黄浜にあり、自動
車の便がある、都落の東方大戸川を距てた対声の
丘陵地で俗福内裏野と呼ばれ内裏野神社のある地
熱を中心として南北に亘り礎石が総数二百余箇遭
存し、古瓦等も発見されて居る神社のある場所は
土曜があり大形の礎石が残存しまたその北約一人
米には四十箇に近い磁石が竝び存じ八間五面の建
造物のあつたことが推測される。との二つの道址
は宮地の主要建物があつたと思はれ更にこれを飜
つて四周に外廓の礎石郡が断続して遺存しまた神
社の東南隅に四間三面の建物址の礎石郡がある。
その他の個所にも磐石が発見せられ、蓮瓦は神社
附近及びその東方の地點から最も多敷に発見され
てゐる紫香梁宮は聖武天皇の皇居で申可宣とも云
ふ。はじめ天皇、天平十四年山城国泰仁京から道
を拓いてこの地に適ぜしめられ次いで同年秋造営
卿密努王等をして造営に着手せしめ給ひ天平十七
年に至る四ケ年間屢々行幸あり、その間この地に
大佛鋳造を試みさせ給うたが故ありて中止し給ひ
宮又完成に至らずして廃せられた。道址は狭小で
あるが四神相應の高爽の地に位して居る。窓地發
見の古瓦、焼物、釘、金具等や北方隼人川邊で發
見された大佛鐘造の際の銅層等の遺物が櫻井村小
学校に保営されて居る。
茶白山古墳墓
旗所下草、西南約八〇○米膳所町膽所平尾にある
茶曰山と呼ばれる丘陵上に東面して營まれて大観
様な前方後回壊で長経一二〇米ある、この西南約
一〇○米の所に小茶白山古墳ある。
石山寺桂灰石
ネート………………………………………………………………………………………………………………………
石山寺はその名の示す如く境内に大岩石が多く露
出してゐる、この岩石は花園岩と石灰岩の臓接に
よつて出来た桂灰岩である。
芳亭言上
藤樹書院址
江若黴道安芸駅の東南一軒、青柳村上小川にあり
自動車の便がある途中藤村神社及その影のある玉
林寺を経て行く。藤樹の老林道路の傍に蟠屈生茂
して自からその目標となつて居る。中江藤樹陽等
の道址でもと四間八間の茅葺の書院があつたが明
治十三年雑火し今僅かに入口の四郎門と土蔵等を
遺存して居る。門は商業な小門で門扉に下り藤の
透彫がある。今書院址に仮屋を建て「致良知」の
属類自筆著書、予焚器具、築竹その他の遺物を陳
列してゐる藤樹道齋與右衛門小川村の人で祖父吉
長伊予大洲侯に任へて居たので効時大洲にあり十
一歳大学を読みて始めて聖賢の学に志し大洲侯に
任へ学徳夙に高かつたが寛永二年致仕して遥に帰
り徒を集めて書を講じた。家の傍に藤の老樹があ
るので雅號も書院も藤樹と称した。かくして近江
聖人と尊称した。慶安元年歿す年四十一、恋人祠
邸を作りてこれを祀つた。享保十一年大満藩主、
分部光忠は書院の諸役を免じ長く祭祀を絶たざら
しめ歷代これに倣つた。寛政九年光格天皇勅して
その講堂に徳本堂の號を降し給ひ、明治四十年四
位を贈られた。墓はこゝより東玉林寺門前の道側
にあり、玉石垣を繞らし向つて左方に藤樹先生藕
右方に母堂北河氏墓があり、各々上饅頭の前面に
石碑が建つて居る、入口の直ぐ右にその子常省の
藕がある。
海津大崎
海津から東南約二軒余通らしい道がなく海津から
塩津へ行く汽船はその近くを通航するので船上か
らその風光が眺められる。附匠は古生層を貫いて
噴出した花歯岩より成る奇岩怪石多く、翠松緑樹
これを蔽うて居る岬角で湖角の風景の女性的なる。
に反して雄大雄壮なる男性的の景致を為して居
る。医頭には大崎寺と云ふ古刹があり、千黄松、
辨天松等の名木がある。脚下の清を辨天濱と云
・・・・・・・・・・・・
大津市
石山寺の秋の秋の秋の秋の月で有名なる
石山寺の創設は奈良東大寺造営に際し良辨僧正が
石山寺を設けしに始り孝謙天皇の天平宝字五年よ
り六年にかけ建立され当時堂塔仏像仏具等籍業を
尽せしと云ふ、藤原時代には当寺の鳳光とその観
許の信仰ほど都人を引き付たものは恐らく他にな
かつたであらう。字多法皇を初めとして東三條院
の如きは五度までも御霊を運ばせられ和泉式部、
赤染衛門の如き歌人も突続してその文療を述べ又
紫式部が源氏物語著作の祈願をなし著作をなした
部屋も現存し源氏の間と称す、幾多の風流縮事を
残して居る。一條天皇の正歷二年に一度焼失せる
が後八十年余を経て承暦三年に一部を再建した、
其後建久年間に至り源頼朝により復興され、更に
慶長年間秀頼の寄進にて堂塔を修理をせらる、現
在の諸室は藤原時代に再建された本堂を除き何れ
も建久以後の再建である。東大門(仁王門は国実
にして漁頼朝の建立にして謙有時代の雄大な風格
を存して居る、仁王門を入り毘沙門愛、蓮如上人
堂及御影堂があり天然記念物の雇灰石の一体が
堂の後影金ガあルテ祭語念学の術カスの一楽才
露出して居る、本堂は更に一段高くに南に面し襲
原時代の建造物にして国変たり、其他国実として
鐘楼、多資格要、毘沙門天像、観世昔菩蒔立像、
大日如来座優、毘沙門天、特国天
増長天、不動明王、鍋島、石山縁起、史記、仏説
浄業降経、仏涅槃画、不動明王二童子優、源氏物
語、釋迦如来坐像、越中国官倉納発交替記、延暦
交替式、周防延喜八年戸籍、漢書、左伝、玉篇、
説一切有部倶舎論、行医抄。
三井寺
は弘文天皇の皇子、大友與多王の創建に始まり、
後智証大師(円珍)再興を企て貞観元
年に工成り延庁寺の別院として圓珍はその別当と
なつた。後延応寺との間に紛争を生じ延暦寺より
分離して独立するに至つたが抗争止まず図城等の
堂塔は屢々山徒の為に焼かれた。現在の寺塔は豊
臣徳川両氏の造営にかゝるもので其の主要な寺措
は親音堂、勧学院、灌頂堂、三重塔変、一切経点
会堂、光浄院御洞堂、仁王門、円満院、及新羅
神堂等である。円満院は円城寺の寺塔であるが古
来円城寺長事の住房で寺務を総轄して居る、国実
建造物及国資々物等見るべき物多し、
逢坂山と逢坂闘趾大津市南方の山で、普武内
宿福が忍熊王と交職の時、図らずもこゝで出逢つ
たからこの名が起つたと伝へられて居る。古来山
城、近江両国の境をなし、孝徳天皇大化二年畿内
の四至を定め給ふた時この山を以つて北隈とせら
れた。邊坂閣は設画の年月詳かでないが延暦十四
年に至り一旦廃せられ、其の後文徳天皇天安元年
再び置かれ、国司健兒等をしてこれを守らしめた
伊勢の鈴鹿、美濃の不破と共に三関と呼ばれたが
その廃絶の年月は詳かでないが逢坂の関は京都東
北の門戸を擁し、交通の要路に当りその名は枕の
草紙や東關紀行はじめ平安鎌倉から室町頃の文学
に屡々散見し、名所としても有名である。
茶曰山古墳墓所町膳所平尾
る丘陵上に東面して營まれた大規模な前方後囲壊
で長径一二〇米ある、この西南約一〇〇米の所に
小茶白山古墳がある。
粟津原膳所町の南一帶の地にして亭々たる番
松連り、雲津の晴嵐として名高く近江八景の一つ