響上人再興して一字の草麗を営みて以来念仏道場
となつた。今「お大目さん」の名を以て知られ宝
物は国実に指定されて居る。
三雲村美松自生地
地指定天然念物の項を見
天保義民碑
天保義民碑伝芳山上にあり、高さ一〇米幅一
米牢「天保蔵民之碑」の六大字を刻してある。天
保十三年幕府勘定役市野氏来りて天鎮地を礼し
前際甚しかつたので農何大概し三上陣屋に市野氏
を鳴環した、首謀者は多く刑死に處せられたが十
萬日の日延で滅稅の目的を達する事が出来た、こ
の碑はその義民に対して建立されたものである。
音水寺医王院と称し、延暦寺の末寺にして本
堂を薬師堂(国宝)と称し、本遵師
像三幅共国実にして又本尊の薬壺に蓮簿を彫り、
その蓋の細が花形となつて居るのは頗る稀有の形
である。
街道寺及飯道神社
飯道寺山に在り、もと宮
町の館道神社の別当寺で良辨の開基、慈覚大師の
弟子光定再興した。本尊及寺実共に国実にして、
館道神社は山上に在り、和鉄年間の創立にして延
喜式内の古社である。
紫香楽宮趾
桑香楽宮趾雲井村黄浜にあり、大戸川を距て
た対染の丘陵地で俗稱内裏野と呼ばれ、内裏野
神社のある地器を中心として南北に亘り磯石が二
百余働遺存し古瓦等も発見されて居る、紫香楽宮
は聖武天皇の皇居で甲可宮とも云ふ。道址は狭小
であるが四神相應の高夾の地にして宮址発見の古
瓦、焼物、釘、金具等や北方隼人川呼で発見され
た大仏伝造の際の銅層等の遺物が養井小学校に保
驚されて居る。
信楽恋創業の年代は詳でないが、弘安、嘉歴
の頃長野村に起つたもので露は登露、燃料は松村
陶士は附近に於ける花園岩の分解せるものを用ゐ
る。製品は価額低康にして實用向である、年流額
百五十万五十百五十二五
鹽野、宮乃鉱泉岩尾山麓にあり、ラジウム念
有の弱食嫌果で加熱して居る。リウマチス、脚気
今週を始め、婦人病、呼吸物等によく。
妻の前日明台芸等によく交る。
沿日神社油日村に在り、天怒日命、道臣命、機
取女の三神を祀り古来油日大明神と稱した。本殿
は明應二年川枯神社に造営したのを近年こゝに移
したもので檀門と共に何れも国実に指定されて居
る
高島郡
興聖寺朽木村岩満にあり、佐々木氏の創建で
永平寺懐岸禪師を講じて開山とし嘉永三年堂宇を
建立した近江に於ける最初の禪林である。足利
藤晴が三好氏に追はれこの地朽木植綱に頼りこゝ
に仮座所を設けた、今境内の周隣院庭園はその辺
構である。下方安蔵の清流を似帰する批勝の地で
ある。
聲庭野櫻尾村外四箇村に亘り東西八軒餘、南
北約五軒、面積七百七十八ヘクタール縣下第一の
原野で陸軍演習期に充てられ麻会がある。この原
野は相模野、三方ケ原に次いで明治十八年基線が
選定された所で我が測量史上注意すべき地であ
る。
海津大崎附近は古生扇を貫いて噴出した花園岩
より成り脊岩怪石多く翠松縁樹これを薄うて居る
岬角で淵南の風景の女性的なるに反して雄大なる
男性的の景致を為して居る、巌頭には大鐘寺と云
ふ古刹あり千貫松舜天松の名木があり浜松辨天法
と云ふ。
宗正寺
宗正寺海津村にあり、本尊十一面観音堂像は
国資指定物である。
天神社海津天神社と云ひ社宝の法華経は各巻
毎に正中二年三月十八日奉施人の奥書を有し養母
引料紙に金泥の小花模様を散らし優美の輝があり
国実に指定されて居る。
牧野スキー場琵琶湖の北端比貞連峯と賤ケ岳
の山麓に東面せる高原一帶には緩急種々な好スロ
ーブがある、練智場の北方に三国山が聳へて居る
これへ登るのも又興味多い物である。
《題：藤樹書院画
藤檀書院趾青柳村上小川にあり、附近に藤樹
神社及墓のある玉林寺あり、書院近くには藤樹の
老株道路の傍に蜂屈生茂しておのづから其の目標
になつて居る、中江藤樹講学の遺地でもと茅葺の
書院があつたが明治十三年罹災し今僅に人口の四
脚門と土蔵等を遺存して居る。
朽木溪谷潮西第一の大河、安台川の上流荒川橋
から高岩橋辺までの約三料を云ひ、夏は虫狩り、
秋は紅葉狩りによく近江郎馬渓の稱がある。
…トウン……………………………………………………………………………………………………………………
近藤重藏大澤町勝野丘陵の中腹瑶雪院の境内に
あり、明和八年江戸に生れ寛政十年幕命に依り拠
掟に渡り藝人の建てた桜柱を徹去して別に我が
鐵柱を建て、間宮林蔵と並び称せられた偉人であ
る。万延元年幕府其の功を追賞し維新後正五位を
られた。
松
栗太郎栗太郡
矢橋浦巻上村矢橋にあり、湖上六軒を隔てて
大津市と相対する、古は兩地間船の往来が鉱繁で
矢走の歸帆として近江八景の一つに数へられた程
なりしが近時は山田港より汽船の定期航路が開け
たゝめ今は昔時の面影を失つた。埠頭を中心とし
て遊園を開いてある名達に法印柿がある。
常。善寺良辨の開基にかゝると云ひ延徳年中足
利義尚が銅村にあつた舘を移して当寺を再興し
た。関ヶ原役後徳川家康大阪に至る途次当寺を館
として勅使を迎へ、又秀忠もこゝに泊した。庭は
細川幽斎の築造であると云ふ、本尊は国実に指定
されて居る。
野路の玉川老上村野路の東端十禪寺川に沿う
野路の玉川
て一小池がある。和歌に多く誅ぜられた六玉川の
一つ野路の玉川の名残である。
建部神社(宮階大社
は日本武尊で延喜の制名神大社に列し近江国一宮
である。神社に感する女神坐像は別に小女神坐像
二躯を附属し、何れも木造彩を施した垂髪の姿
で藤原時代未期の作にかゝり国実である。
瀬田橋一名臥竜橋と云ふ、中島によつて連絡
する大小二橋に分かれ三者合せて長さ二六〇米に
及び大橋の長さ約一七二米、小橋五二米、橋幅七
米、橋柱二十郎は新式の緩筋コンクリートである
が大小三十四本の撮宝珠を着けた欄干、コンクリ
ートを覆うた橋板等全部古式に賜り外観は依然歴
橋の風を示して居る、橋上より南に石山、北に発
旧測を望み風色秀麗、夕照は近江八景の一つであ
る。
「結婚神社神社表門は舊所城の城門で明治三年
城廓を發却した時各神社へ移達した城門の一つで
その構造は高麗門に属し。国実に指定されて居
安養寺浪言宗大覺寺浪
れた大伽藍なりしが長享元年兵火に遭つて焼亡し
た。本尊薬師如来坐像は国実である。
新善光寺桑山村林にあり、阿弥陀立像は木造で
寺伝に慈覚大師作で室町時代の作である。
金勝寺
と呼ばれ天平五年金爾菩薩良鱗の草創にかゝり、
聖武天皇の勅願寺にして規模頗る大なりしが後世
嚢顔したが国実及見るべき物多し
山上山満田川洗壊の東南に聳え、茶湯色に禿
げた山で太神山へ五〇、矢警衛
深川吉へ同三三十二峯の谷プ。大輔はます。五坪味
笹間岳(四三三巻)。太神山は登り五料米
不動明王を祀る太神山成就院あり、田上の不動と
云はれ、春秋二季の彼岸に発客が多く、七曲りの
□、泣不動、梅雨池、影向岩等がある。矢塗山は
水品黄玉等の産地にして笹間岳は頂上に祈雨の神
として知られた白山権現を祀り山中に喜雨の鶴場
八畳敷岩。石雨電等がある。
西
況
大笹原神社
同神速須佐男命、稲田姫命及山田
大蛇を祀り国実指定物等見るべき物等見るべき物多し
兵主神社大国主命を祀り、式内の名神大社であ
る、源頼朝武運長久を祈り文治二年社殿を造営し
神領を寄せ多くの武具を奉納したが文永中氏火に
焼爐したが足利尊氏また社殿を興し神領を寄進し
た、国実指定品多し。
寺満寺天安年間慈覚大師の創建にかゝると云
ひ、後親覚上人こゝに阿弥陀像を安置し念仏道場
となした、境内に阿弥陀堂、大師堂、天安堂及び
東山天皇から賜つたと云ふ宮御殿と呼ばれる建物
等が並びまた親鸞上人衆教掛松がある。
瓢王の遺蹟麻王村字中北にあり、紙王姉妹出
生の地にして祇王寺に母子三人の木像あり、村民
の為め清盛に請ふて穿ちたりと云ふ井戸は今尚存
して諷王井と名く。
御上神社
御上神社祭神は天御影命、式内名神大社である
本殿、拝殿、桜門等何れも締看時代の作にて国宝
に指定されて居る。
三上山海抜四二八米に過ぎないが平野の間に
屹立して人目を煮き形状富士に似たるを以て近江
富士とも云ひ、藤原秀郷の伝説は百足山としてそ
の名を壇にせしめた。山腹に妙見堂がある、晩春
これに登れば田団一帯茶花の金波を打ち、遥に
巻湖の靑籃と相映じて眺観秀絶である。
來迎寺聖観音立像(國実
大日堂大日堂大日堂
薬師堂薬師屋
。小田神社
門へ国実
西願寺阿彌陀堂
薬師如来像
宗泉寺
第一、薬間如来像
宗泉寺薬師如来坐像、不動明王、両童子立像
(国変)
源氏益発生地
守山町に跨り古来有名な源氏登が葬殖する。
東門院
書立像は平安朝初期の作にして、また護摩堂の本
尊不動明王坐像と毘沙門天立像と共に国実に指定
されて居る。
新
石塔寺三層塔姿