である。義仲寺当地にありて昔時蔵仲流失に斃れ
た地である。
平野神社へ大津市松本町
同神を崇めて□□神社とも称す。松本、馬場の遊
土神で創建の年月明かでない。御神体の猿田彦命
の像は国実に指定されて居る。
伴聖苑蕉の墓碑
十月大阪の旅舎で歿したが遺言によつて門人等が
こゝに埋葬したものである。墓の前に翁の木像を
安置した満酒な翁堂があり、欄間に蕉門三十六人
の俳句を掲げてある、境内には大小の句碑多く中
には伊勢の俳人又左の説んだ「木曽殿と背中合せ
の寒さかな」と云ふのもある。
長等山市の西方に聳え、南は逢坂山。北は
比叡山、一に志賀山と云ふ。山は高くはないが古
来有名である、古歌に説んだ志賀の山越は三井寺
から京都関ヶ谷に出る道だと云ふ。中腹に高観音
と稱する映画と称する尾顕寺あり。
長等公園円城寺跡地境内、微妙寺境内地と高観
番一帯の地との間にある狭地を云ふ、現拠は小さ
いが自然の風光が佳観である。
フエノロサ墓法明院墓地にあり、開山蔵瑞籬
の側に立つ五輪塔がそれである、ブエノロサは米
人にしてポストンに生れ明治十二年東京帝国大学
に招賜によりて来朝し、日本英術を研究しその画
価を内外人士に紹介し我国美術界の検興に貢献し
た人である、遺意によりこゝに葬られた。
硫水運河上水、発電、交通、防火等のため不断
一定の水量を得る目的を以て琵琶湖の水を京都市
に疎通したもので本邦著名の大工事である、運河
は第一、第二即ち新旧二條ある。インクラインは
二箇所あり、一は長さ五八二米勾配十五分の一、
一は長さ二三六米、勾配十分の一で四條の鐡軌を
設けてある。嚮は水中から四輪の織車に載せられ
鬼風の作用で助く彈棋がこれ二浦案しこあるのご
電氣の作用で動く総築がこれに騒繁してあるの二
斜面を行動し、所謂船山に登る奇觀を呈する。
人最巡り季節は三月十五日から十一月十五日ま
で毎日、十六日以後二十三日迄の日曜、祭日にも
出帆する、浜大津を発して南に向ひ右体に粟津の
松原を望み、新田街橋の下を纏て石山寺附近を過
ぎ南郷洗壊に至りて引返し濱田川を潮つて湖上に
出で天橋、三上山、比良山、堅田の浮御堂、坂本
広崎の松、三井寺等を見て浜大津に帰着する。
島巡り琵琶湖の北部にある諸島を巡航するの
で島巡りと云ひ途中数多の名所を望見する浜大津
解覧広崎の松、比叡山、坂本三上山、堅田の浮御
堂、近江舞子、白髪神社、竹生島、多景島、沖の
白石、奥島、沖の島、長命寺が眺められ飜程約一
三〇料。
多景島周国約半料の岩嶼で松樹竹篠繁茂して
居る、もと探竹の生へた島の意で竹島と云つたの
を景越に富むので多量島としたものだと云ふ、島
内に見塔寺、暫の御柱等有り。
石晶石沖の白石と呼ばれ、大小四箇の者が
湖中に屹立し高さ約九米、常に水鳥が群集して居
る、附匠は網鱗大魚が多く時に発劇として水面に
躍る。
賀里百塚滋賀里にて志賀峠に至る道の北側
同滋賀里百塚
の山腹にあり、その数三十餘個あり、何れも南面
して石室を開き石棺の身を内部に感するものもあ
る。里俗山寺と云ふ寺の境内にも石室の古墳があ
る、この地湖水を前面に見渡し景勝の地に位して
石当時代遺物を出し、また寺地その他古代道路が
ある。
滋賀郡
比叡山比級山は本縣及京都府に跨り四明岳を
最高峰として東は琵琶洲を西は京都市街を湖下に
縣下する勝地である、登るに坂本よりすると京都
よりするのとあるも、坂本より登り京都に下山す
るをよしとす、山の櫻高海抜二千七百尺山帶に老
松古松桜蒼として繁茂すれども登るに従ひて漸く
疎に、頂上に至れば禿突として四顧の展添にす
るを得べし。
延暦寺比叡山の中腹にあり延暦四年この山中
に天台宗の開祖傳敎大師最澄が一草庵を營み天台
の法燈をかゝげてより山中山下到る處寺観僧房を
以て充満した。山下には日吉神社附近に讃佛堂、
生源寺、滋賀院門跡等の場頭子院があり、山中の
諸堂は大体東塔、西塔、無動寺、横川の四区に分
かれ集結されて居る。元曜初年の戦国に際し寺僧
等兵器を弄び闘争を事とするに至りしより信長の
怒に廃れ一山悉く焼き払はれて殆ど廃滅に傾きし
を後豊臣秀吉之を再興し、次で寛永年中徳川家光
巨費を投じて諸坊を建立したるもの今日に伝ふ。
国実及国実建造物等見るべき物多く今尚天下の大
映画たるを失はず。
琵琶湖に臨んだ低地にあり
来迎寺
仏教大師の草創にかゝり長保年間惠心僧都によつ
て再興されたと云ふ、その後元廣國清寺を合して
本尊法具等を移した。客殿
に指定されて居る。
日吉神社先穀山の山麓にあり世に山王と称す。
その大宮は大比報と稱し、大和大三輪神を祀り二
宮は小比叡と称し、大山呵神を祀る。大山呼神神は
古より北叡山横川に鎮座せしを僧最澄が延騒寺を
創建するに及び山下に移しこれを地主神と云ひ大
三途神と共に寺の鎮守とした。当社は延喜の制名
神大社に列せられ後二十二社に加へられ、後三条
天皇の延久三年行幸ありしより以来御奉行啓も屢
々あり、当社は延庁寺と密接の関係を保ち鯛野の
崇徹を得た史上に有名神興検及国実、及国実建造
物等見るべき物多し。弼察は山王祭と称し四月十
二日から十五日に及び大いに厭ふ。
比良山海牧二千八百余尺近江第一の高山にし
に到冬より漫手車伜に至るまで山貞尊を設き人族
て初冬より翌年仲春に至るまで山頂露を驚き八景
中に賞したる所謂比良の暮雪は此の期間に於て遺
憾なく見るを得べし。
福鎮寺村雄参村雄秀にあり、木尊阿
彌陀如来坐像は鎌倉時代末期の作にて国実指定物
である。
伏龍祠伊香立村南庄の洪精層豪地の畑中にあ
り、木造の小祠に彩色を施した木彫龍香を神体体
して詫つて居る。ステゴドンの化石を艶骨と称し
て崇め祀つたもので化石は現今東京科学博物館に
陳列されて居る。
小野篁神社小野纂を祀り社殿は室町時代初期
の作にて国寮に指定され、境内に上代古墳の石棺
が露出して居る。附近には小野道風神社、小野妹
子慈、遷来神社、明王院、等国資指定物等多し。
雄松崎比良川の下流に当り、湖中に突出して
居る所で近江舞子とも呼ばれ一軒餘の沙嘯が内湖
を抱き寿松要を競ひ鳳光明媚である、春夏の候大
網を敷いて鶏を漁纏することが多い。
西教寺天台宗藤源の本山で眞盛上人を開祖
とする、文明十八年一流を聞立し西教寺を復興し
て教化に努めた。寺は元亀の兵火に類焼し天正十
七年漸く当字を再建し同十八年勅命によりて洛東
法勝寺を併合し、これより本寺を圓戒弘道、常行
三味、本道場とせられ兼法勝西教寺と称した。今
寺内に祖殿、本堂、客殿(開山御廟等があ
る。本尊阿彌陀如来坐像国実に指定されて居る、
又実物等見るべき物多し
唐崎の松下阪本に在り、唐崎神社境内にある。
黒松の極めて巨木となり且つ特異の発生を遂げた
もので主幹は地上約七〇種の所で三分し、中央の
一本は主幹となり高九米餘、二本は太い枝となり
北と東に出で長く延びて居たが今は枯死して居
る。唐崎夜雨は近江八景の一つで有名である。
汐堅
してもと惠心僧都の草創で千体阿弥陀仏を安置し
たが後荒廃したのを桜町天皇、御能舞臺を賜ひて
移建せしめられたもので、湖岸から潮中に突出し
た実形造の小堂字であるから浮御堂の名が起つ
た。本尊は聖観音木造著色の坐像で国実に指定さ
れて居る。
立木観音石山立木の濱田川に臨んだ山腹にあり
俗に厄除観音と呼び立木の等身の観音を本尊とし
四十二才の厄除けに参詣する者が多く初縁日の一
月十七日、二月節分及九月五日の千日会には殊に
雑沓する。
白嬢神社渕に面して建ち祭神は娘田彦命、長露
の神として聞へ、大祭九月五日には殊に饗客雑沓
する。社域は山脚渕に迫り、朱塗の大鳥居高燈籠
を湖上より遥拜される。
甲賀郡
常楽寺石部町にあり、西寺東寺共に金勝寺の
別院で良葬僧正の開基、行胤上人の再興にかゝる
寺にて国宝等見るべき物多し。
大岡寺観音院及岡の観音と呼ばれ行基の開基
と伝へる、本尊千手観音立像及阿彌陀如来立像共
国実に指定されて居る。
水口神社延喜式内の古社にして水口大宮と称し
大岡寺の鎮守である。
Ｓ願隆寺寺実の阿弥陀如来坐像、日光月光両著
隆共国実指定物。
千光寺往時は十坊あり、甲賀六大寺の一であ
つたが天正の兵転に堂字悉く鳥有に帰して廃頽し
たと云ふ本尊国資指定物。
田村神社神社は田村川の清流に臨み講獲たる森
林に関まれて境内廣く社殿宏壮、殊に老楓多く既
秋紅葉期は美観を現ずる。祭神坂上田村圧がこゝ
から釈近い鈴鹿山山城を追討した縁故から奉祀さ
れたもので田村草紙や謡曲田村で知られて居る。
鈴鹿峠土山町から東南八軒で絶頂に遷する、
近江伊勢に跨り海抜三七八米、東海道の嶮で傾斜
は江洲側に援、伊勢側に急である。今中腹に隠道
を開鑿して自動車が通じて居る。
大平寺(錫源寺へ土山
内村)等実物(国実)等数多あり。
松尾坂鈴鹿峠の西種にあり「坂は照る〳〵鈴
鹿は然る間の土山雨が降る」と歌はれた。今は廃
道になる。
廃小菩提寺及石造多実塔及石仏
蹟天然紀念物を見よ)
武ヲ名乗永特本史
正福寺岩根村に在り、貞薄の開基と伝へ寺観
廣大であつたと云ふ、後兵火に罹り、承應の頃群