あり、伊勢と並び称せられて歴朝の体猶厚く古来
延露延命の霊験ありとして信仰され崇敬者全国に
広く講社の妾拝が多い。四月二十二日の例
に行はれる古式の渡御式は盛大で名高い。
青根村青根村里根漁堂を有し寺内
に直弼の守本尊たりし菩提観世音を納む。伝へ云
ふ当時の住職直弼の願面に剣難の相あるを憂ひ其
の厄除として此の聖像を授けしに直弼悦んで一日
も身辺を離さゞりしに万延元年三月三日登城に際
し取り忘れしが其の日計らずも水戸浪士の為に生
命を失ふに至りしと。
四明寺
明天皇の勅影所で承知年中三修阿闍梨の開基で諸
裳十七僧房を備へた大伽蔵であつたが天正中氏火
のために本党、山門以外の諸字は焼失した。本堂
三重塔後、二天門の国宝及見るべき物多し。
煙
二
位
関ヶ原古戦場
關ケ原古戦揚ケ原古歌
西方石田三成の軍と東方徳川家康の軍と漁職を交
へた古戦場で、両寅の古歌場を見るには関の北約
半料の地鑑にある小丘丸山から展望するのが便で
ある。西方の笹尾山及天満山の方面は西軍の據つ
た所、東方機配山は徳川家康の嫌つた所と伝へら
れて居る。
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師の創建と伝へ寺實中に多くの仏像、画の古き物
を感して居る。其の内浮土屋茶屋、聖徳太子の霊
像及不動明王の霊像は国宝にて目下何れも奈良帝
家博物館に出陳中である。
北島具行墓柏原駅の西南約一軒。元弘元年後
護漢天皇北條氏討伐の御企図に参興した事が露は
れて北條氏のために捕へられ元弘二年この地で斬
られた忠臣である。明治維新後正二位を贈らる、
墓は今指定の史蹟である。
伊吹山伊吹山塊へ北は延びて国見峠に及び、
南は關ケ原の低地帯を越え鈴鹿山脈の主派に連絡
して居る。この山は本縣第一の高師にて海抜一、
三三七米ある、三合目から上は雑草一面に繁茂し
て盛夏初秋の頃は百花咲き亂れて美観を呈す、四
合目には薬草団の設があり、薬草の主なるものは
百三十三種からある。東海道線唯一の稿害地で關
西スキーの揺魔地にして名物には伊吹支、百草、
伊吹蕎麦などがある。
伊吹山測候所大正七年下郷傳平氏の出發によ
つて建築され伊吹村上野にあり、海抜一、三七五
米に位し日々の観測は電話に依り彦根瀬侯所に連
報される。
醒井の不断醒井の不断
餘井の不斷櫻
あり、二株あつて一株は根元の幹団三〇種余、他
は約二五種、花は白色にして鶴端流紅を帶び花梗
は短くして毛なく無花序二花または三花を着くる
蔦は独色で隣片状をなして居る。
米原駅路米原隣の東約三料。継古時代
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の創建と伝へ、もとは法相宗で米山の下にあつた
が、後今の地に移建された。元弘三年五月守良親
王この地に北條仲時を要環され、仲時以下四百餘
人が自殺を遂げた所で、境内にその壇墓がある。
何れも五輪捲で其の多くは高一尺内外の小緒であ
薬師堂
を感して居る。
長浜城址天正元年織田備後は本域に據れる浅井
長政を滅して羽柴秀吉を置いた。其の後幾焼遊し
て寛永五年以後廃城となつた。現在は豊公園と呼
び、湖水足下に波打ら、遠く竹生島及対染の山嶺
を望み眺望がよい。
長濱別院
大谷派別院として名高く、本堂(阿弥陀及大広
間共に空質に指定され、規模宏牡手法雄大にして
承應年間東本願寺から移された。舊伏見城の賣搆
にして客室の倉山軒及驕亭の兩棟も国實にして江
戸時代初期の建築である。
長浜祭(八幡神社、縣社の祭にし
て十月十五日の例祭には古例により太刀渡りの式
及神輿の浚御を行ひ、また十二編の山車を出し全
町をあげての祭にして全国的に名高く大いに厭ふ
舎那院利新画長駅の東約一軒。
本地佛の愛染明王の坐像(国官三眼六
医の優秀な鎌倉時代の作である。阿弥陀坐像(国
木造漆館高き約三尺五寸藤原時代の作。
総持寺新義眞言宗
聖観音の立像は藤原時代の作にて国宝に指定され
て居る。尚實庫には国宝愛染明王露鴬
の大輔、その他多くの仏画を感して居る
長崎映画長満映画一料。
本堂は室町時代末期の建築にして阿弥陀三尊を安
置して居る。境内の観音堂には国実の木造漆箔高
さ約二尺の十一面観音像が安置してある
神照寺
半肉彫千手観音立像へ木遣共
に国定として指定されて居る。
仏心寺
同愛の月迄太平画線を綴して語る。
国実の明空法師画像を影して居る。
多田幸寺薬師像
の本尊である、結瀾獣星の木像にて平安時代の作
東浅井郡
竹生島湖の北部に位し大津から七二軒、彦根
より二四軒、長浜から一二軒、葛籠、尾崎を距る
こと南方約三軒である。花園岩売の一小島で周囲
二好に遷せず、海抜二〇〇米に近く湖面を抜く事
約一一〇米、面続○、一四方料、湖峯は概ね絶壁
をなし東方僅に舟を寄せて上陸する事が出来る。
島に津久夫須麻神社、実廃寺、観観音堂がある、
島の全部及周囲の水面一〇〇米は絹定の史蹟及名
勝である。看船場より數十の石段を登れば左に復
義寺本坊がある、右折して進めば観音堂に入り隠
下続きで郡久夫須藤神社に至る。神社後方の登道
を登つた處に實物語がある。
竹生島弁天並島銭天並に観音家の別
当寺にして西国三十三番第三十番の札所である。
観番常はもと伏見城の遺構で慶長七年豊臣秀頼に
依りこゝに移建されたもので、向唐門及渡庁と共
に国実に指定されて居る。
都久夫須麻神社
長勝の地を占め湖上の眺めが頗る處い。淺井姫命
を祀り俗に竹生島明神の名を以て知らる。日本三
辨財天の一つにして廣く世に信仰せらる。社殿は
慶長七年豊臣秀頼が伏見撫山の日暮し御殿を移し
改修したもので国実に指定せられて居る。
元三大師(主衆縣の東約二軒。
本堂は重暦三間四面入母屋造、優瓦葺、江戸時代
の大学察にして激惠大師の坐像を安置して居る。
木造高さ約三尺七寸、湖防彩色残存、頗る優秀な
作にて国実に指定されて居る。
千手院(新義眞言宗
木道の本尊観音像は国実指定物である。
阪開神社神輿
館開神社の実物にして全部縣遂で天井に応永十一
年の願文が朱塗で認められて居る。
小谷城址へ小谷山の頂上にある
月に京国高岑が浅井尾政をこゝに囲み元徳元年六
月には滝田信長が浅井亮政をこの城に攻めた古城
戸は、日信長が浅井の勇明の策学に於て尹
址にして、小谷山は琵琶湖の東岸に於て伊吹山に
次ぐ高山である。小谷松茸の匠がある。
観音堂聖観普立像
薬師堂薬師如来坐像
大日堂大日如来坐像
寂解院毘沙門天立像
通
但
本ノ本地蔵
白鳳年間の創建にして本尊地蔵菩薩は国実にして
木造高さ六尺餘、尚左右に侍する但生神は何れも
本尊と同じく読会時代の作にして国実に指定され
て居る。当寺には御頭と称する古式の祭事を伝へ
毎年三月二十三、四日の両日に催される。
浅ケ岳古戦場ヘ木ノ本町より西十四丁
天正十一年羽柴秀吉の軍と柴田勝家が対陣し隣家
の敗れた古戯場にして、所謂七本館の名と共に史
蹟に有名である。海枝四二三米、琵琶湖及余吳漁
を控へて眺望絕佳なり。
作映画
關延二里餘にして天正十一年の古戦場地にして東
方の大岩山頂には中川清秀の墓があり、漁猟盛に
行はれ殊に蛭が名物である。船を湖心に浮べて鎌
啓測と選つた風光に接し四週の山峠を仰いで天正
の吉を偲ぶのも興想が深い。
菅山寺綱鐘
鎌倉時代の湾造にして銘文中には蒼山寺の創立
を述べ本願を述べ本国道真の名をあげたのは注目に値す
なな
但
菅山寺
近江国伊香郡有式運屈尤是
称美是故本頭聖霊菅大相図
建立精舎於当山安置明王於
日本尊自命以降年紀観矣経験
納然繁昌無窮故満徒等広為
救群生改講少推鐘成洪声之
寄腰及書響於十方著利益於
九界仍所編如件
第一月八日
大工左馬允
一山楽従一山楽
丹治国則
佐波加刀神社ヘ木ノ本縣北約七軒半高時村）
延喜式内の古社と伝へ本殿に祀られて居る日子供
王、大俣王、小俣王、志夫美宿蘭王、沙本尾古王
京邪本王、佐波運比売命、及室島古王の諸像は何
れも国変に指定されて居る。
伊香具神社伊香津臣命を祀る。
伊予喜代前作者注回自演出演る
観音寺千手観音像
日吉神社編鐘
釋迦堂本尊委迦如来坐像
石道観音堂十一面観音持國天及多間實
薬師堂薬師如来立像
大見神社楽華鳴尊の座像
雑足寺、医王寺十一面観音像。