6月 17, 2025 - 0 Comments - 全般 -

古文書で辿る近江後藤氏の足跡

近江後藤氏は代々、佐々木六角家重臣であったことから、東寺百合文書朽木家古文書宗長手記、など多くの古文書に記録が残されており、蒲生郡志 巻二の第四編 「佐々木氏人志」蒲生郡志荘園志および軍事志などでも取り上げられています。

東寺百合文書
永德元年12月 (1381)の東百合寺文書 に、山内代として、速水庄壇供米についての質問状が残っている。このころ山内氏は、速水庄に所領を有しており、庄内にある宝荘厳院領の代官交迭を望んでいたと記されている。差出人名は沙弥定誉となっている。また長禄4年(1460)の東寺百合文書に後藤正賢ありと記されている。さらに佐々木高頼の時、後藤三郎左衛門高恒あり但馬守に任ず。その子大和守高忠が高頼・定頼に仕えるとある。

 朽木家文書
朽木家古文書 に残された大永2年6月28日(1522)に出された朽木稙廣書状(朽文449)に後藤但馬守高恒の名が見られる。
なお、レファレンス共同データベース 滋賀県立図書館 (2110049)ではこのこの後藤但馬守高恒が中羽田町の後藤館を築いた人物と推定さしている。また八日市市史・資料Ⅰ471ぺジには「後藤高恒書状案」が活字化され載せられている。

さらに朽木家古文書・上(国立公文書館内閣文庫)第二十二軸には、この後藤高恒と後藤高忠が発給した書状が23通載せられている。高恒と高忠が名を連ねている書状もあり、両人が同世代又は近い世代の人物である事が分かる。発給日は記されていいないが、高頼・定頼の奉公人として出されている事から、高頼・定頼と同時期に活動していた人物であることがわかる。

朽木家古文書に残る、後藤高恒と高忠の発給書状。画像はクリック・ダブルクリックで拡大 

朽木家古文書・上(国立公文書館内閣文庫)第二十二軸には、後藤高恒と後藤高忠が発給した書状が23通載せられている。高恒と高忠が名を連ねている書状もあり、両人が同世代又は近い世代の人物である事が分かる。発給日は記されていいないが、高頼・定頼の奉公人として出されている事から、高頼・定頼と同時期に活動していた人物であることがわかる。

早稲田大学図書館、古典総合データベース には、永正16年4月19日(1519)に後藤豊前守高俊が、種村中務丞貞和との連名で 杉山三郎兵衛 に宛てた、室町幕府連署奉書の写し が載せられています。これにより、高俊が六角政権内だけでなく室町幕府においても何らかの要職に就いていた事が伺えますが、事実でしょうか?

室町幕府連署奉書

差出人:後藤豊前守高俊と種村中務丞貞和との連名。
出典:早稲田大学図書館、古典総合データベース

後藤家要人の花押

朽木家古文書と今堀日吉神社文書にみえる、後藤高雄と野寺忠行の存在

朽木家古文書に、天文12年(1543)10月16日に後藤高雄が、野寺忠行との連名で差し出したとされる「近江守護(六角定頼)家年寄連署奉書案」が残っています。これは、朽木氏からの訴えを認めた六角氏側からの謝罪文のようです。
さらに、「今堀日吉神社文書」に残る、天文18年(1549)年2月21日付けの「近江国守護奉行人連署奉書案」でも後藤高雄が野寺忠行と共に、差出人として名を連ねています。以下その文面からの引用・・・
「紙商買事、石寺新市儀者、為楽市条、不可及是非、濃州並当国中儀、座人外於令商買者、見相仁荷物押置、可致注進、一段可被仰付候由也。仍執達如件。天文十八年十二月十一日 忠行 [在判] 高雄[在判    ]枝村惣中」
この書状では、「枝村惣中」に対して、観音寺城下の石寺楽市楽座で、美濃紙の販売を特別に許可するという意向を伝えています。

これらの文書からは、後藤雄は他の後藤家の要人とは異なった動きをしているような印象を受けます。また34年間にわたり高雄の名が確認でき、活動期間が他の後藤家の人物と重なっており、後藤系図との整合を難しくしています。

近江守護(六角定頼)家年寄連署奉書案

差出人:後藤高雄*?と野寺忠行*?との連名。出典:歴史と物語

近江国守護奉行人連署奉書案

差出人:後藤高雄*?と野寺(能寺)忠行*?との連名。画像出典:安土城考古博物館

なお、ここでは従来の通説、および八日市市史(資料Ⅰ 434ページ、近江国守護奉公人連著奉書案-天文19年/1550)での添え書きに倣って、「高雄」の署名を「後藤高雄」のものとしていますが、「池田高雄」のものであるという説が浮上し、現在これが通説化しつつあります。
新谷和之氏による「戦国期六角氏の地域支配構造」では、石寺新市との繋がりが深い「得珍保」には「池田被官人」と同「三郎左衛門与力」がいたとし、この池田氏が「左衛門尉高雄」と同一人物である、という村井祐樹氏の見解を紹介しています。さらにこの著書で、金剛輪寺の「下用帳」に六角氏被官として「能登右近大夫」の名がしばしば登場するが、近年の村井祐樹氏の研究により、この人物は、天文九年(1540)以降六角氏の奉書署判者として活動していた、能登忠行であることが明らかになったとしています。さらに、安土城考古博物館発行の「信長のプロフィール」でも「近江国守護奉行人連署奉書案」の署名人を、池田高雄・能登忠行としています。
さらに「姓氏と家系第21号」所収の「近江後藤氏家系図の仮説的再構築(1)」では、「戦国大名佐々木六角氏の基礎研究研究」から以下の一文を紹介しています。
以下引用・・・(中略)内政・軍事などあらゆる面で、戦国初頭から六角氏滅亡まで幅広い活動が見られるが、従来後藤氏とされてきた「高雄」は池田氏でる。(「補論」参照)・・・引用終り。

これらを考え合わせると、署名人「高雄は池田高雄」、「忠行は能登忠行」とするのが妥当であるといえそうです。
当方としてはこれらの説に納得しつつも、全ての「高雄」が池田氏では無く、「後藤高雄」も実在していたのではないか?という想いを捨てきれません。例えば、蒲生郡志に載せられている「高雄」の花押と連著奉書に署名されている「高雄」の筆跡が明らかに事なる事などから、後藤高雄は別人として存在していたように思えます。

さらに、八日市市史では

八日市市史・資料Ⅰ423ページ所収の「近江守護奉公人連著奉書」に、高雄の署名が見られ、(後藤)と付記されている。日付は大永3年(1523)であり、蒲生郡志に記されている後藤高雄の世代と一致する。
またもう一人の署名人「宮木高祐」は、文亀2年(1501)〜大永3年(1523)の文書で名前が確認されており、世代的には六角定頼以前の人物である。このことを考え合わせると、「宮木高祐」と名を連ねている「高雄」は「池田高雄」では無く「後藤高雄」であるように思える。

長命寺文書が証す後藤氏豊の存在

Wikipediaや、故田中政三氏の著書をはじめ、多くの記事では賢豊の嫡男の名が「壱岐守」という官位名で紹介されています。しかし今回調査した資料からは「壱岐守」の名を見付ける事ができませんでした。
そこで「近江後藤氏系図の仮説的再構築」を見ると、賢豊の嫡男の名として、氏豊(又三郎・三郎左衛門・対馬守)の名が示されており、天文21(1552)から永禄6(1563)にかけて記録に見ゆと付記されています。蒲生郡志でも氏豊の花押が紹介されており,、天文21年8月20日(1552)の六角氏奉公人連著奉書にも能登忠行と共に署名しており、後藤氏豊が実在したことに誤りは無さそうです。
このようなことから、賢豊の嫡男の名は「壱岐守」では無く「氏豊」(後藤対馬守氏豊)と考えるのが妥当なのではないでしょうか?

後藤氏豊と能登忠行による六角氏奉公人連著奉書:天文21年8月20日(1552)発給。長命寺蔵。新谷和之著、図説 六角氏と観音寺城より

観音寺騒動、捨てきれない3月勃発説
Web上では後藤賢豊が謀殺された観音寺騒動の勃発は、永禄6年(1563)10月1日が通説として定着していますが、「10月ではなく3月」説も根強く残っています。複数の古文書に3月勃発の記載があり、賢豊の本拠地である中羽田町に3月勃発説を裏付けるかのような風習が、最近まで残っていたようです。それは、賢豊の死を悼み「3月節句の行事は一切行わない」というものです。
これについては、冊子「八日市市の昔ばなし-孫にきかせる」で紹介されています。もしこの風習が古くから受け継がれてきたものであったとすると、3月勃発説の信憑性を裏付ける、根拠の一つになるのではないでしょうか?

以下、古文書に記された観音寺騒動勃発時期の一覧を、「近江後藤氏系図の仮説的再構築」から引用させていただきました。

文書の成立 文書の名前 騒動の勃発
永禄6年(1563) 厳助往年記 永禄6年10月
元亀 3年(1572)頃 兼右卿記 永禄6年10月1日
天正末期(1590-1592) 足利李世記 永禄6年
寛永10年(1633)頃 氏郷記 永禄6年3月15日
寛永15年(1638)以前 勢州軍記 永禄6年3月
明暦2年(1656) 江源武艦 永禄6年3月23日
延宝6年(1678)以前 長享年後畿内兵乱記 永禄6年10月1日
元禄3年(1690)以前 永禄以来年代記(年代記抄節と同じ) 永禄6年10月1日
元禄8年(1695) 蒲生軍記 永禄6年3月15日
元禄年間(1688-1701) 浅井三代記 永禄7年3月23日
宝永年間(1703-1711) 続応仁後記 永禄6年春
享保19(1734) 近江輿地史略 永禄6年3月23日
安永年間(1772-1781) 端石年代雑記 永禄6年10月11日
明治35年(1902) 氏郷記(再校) 永禄6年3月15日

 

この一覧を見る限り、勃発した年に近い文書では、通説通り10月とするものが多いようです。しかし、「氏郷記」をはじめ、3月とする文書も多く、安易に3月説を捨て去ることはできません。
また、初出の「厳助往年記」は作者である厳助が自らの日記をもとに、賢豊が殺されたとされる永禄6年に文書化したものであり、一次情報に極めて近いものとして評価できます。この文書の写本が国立公文書館デジタルアーカイブ に載せられています。

厳助往年記:国立公文書館デジタルアーカイブ から引用

賢豊が殺されたとされる永禄6年の出来事は、この閲覧データ末尾の 117-120ページに収められています。観音寺騒動については、7月18日の日付の欄(119ページ後半)に「江州観音寺城滅却及乱事」という記載が見られます。
尤もこれは、観音寺騒動が起こった日というよりはむしろ、伝え聞いた一連の騒動を記した日と捉えた方がよさそうです。もしもしこれが、7月末の出来事またはそれを記した日であるとすると、10月の2カ月以上も前に騒動が起こっていた事になり、10月説とは符合しません。
騒動勃発の時期については、未だに情報が錯綜しており、コンセンサス形成までの道のりは長そうです。

後藤館の実名は津川城?それとも羽田城
後藤氏の居館が中羽田町に残っており県の史跡にも指定されています。しかし「近江後藤氏系図の仮説的再構築」によると後藤館という名は、大正11年(1922)に発刊された蒲生郡志が初見であり、その出自も示されていないとの事です。しかしその一方、「蒲生氏系譜伝」及び「蒲生氏郷考」所収の系図には「津川城主」、そして「佐々木南北諸士帳」宝暦3年(1753)の筆写には「津河城」の記載があるとされています。
この事から「近江後藤氏系図の仮説的再構築」では、江戸期に「津川(河)城」の伝承が途絶えた後、明治期になって「後藤館」の名が新に使われ始めたのでなないか?と推定しています。また、滋賀県立図書館調査協力課の見解は、「後藤館は「津川(河)城」と比定され得る位置にある」との事です。現役の頃に使われていたであろう「津川城」の名が葬りされててしまうのは口惜しい限りです。なんとか真相を究明して、「津川城」の名を後藤館の名前の脇にでも付記したいものです。
尤も、中羽田と蒲生一帯には「津川」の地名は残っていません。そこで「津川」の「津」の字について調べてみたところ、「河口・泉など、水の湧き出る場所」を意味するようです。
後藤館の一角には、昭和の中期あたりまで池があり清水が湧き出ていました。そしてその水は後藤館の土塁の前に掘られた堀を満たし、さらに小川を通じて下流に流れ、私が住む下羽田の農業用水としても使われていました。この付近には白鳥川や布引川が流れていますが、この地に源泉(津)持つ川は他に無いので、これを「津川」と呼んで区別していたのではないでしょうか?
以上、この地に水源を持つ「津川」という川があり、その源流付近に建つ城なので「津川城」と呼んだというのが、私の安直な仮説です。

関連情報-後藤堀の清水:
板谷宇一家文書として残る「下羽田村願書案」(水利相論に関わる文書)で「後藤掘清水」について言及されている。この文書は慶安3年(1650)に作成されたものであり、江戸の初期には後藤館の周囲に掘られた「堀」の名が(小字名)後藤掘として残っています。そしてそこに湧く「後藤掘清水」が農業用水として利用されていたことが分かる。(八日市市史第六巻・資料Ⅱ 271ページ参照)。また板谷宇一家文書「後藤掘出入りにつき下羽田村覚書」でも同様の史実が記されている。八日市市史第六巻・資料Ⅱ 277ページ参照)

また、「古事類苑」では、「淡海落穗集」からの引用により「羽田城主 後藤但馬守」の名が見られ、後藤舘が「羽田城」とも呼ばれていたようです。

淡海落穗集(天正十三年十一月)写本からの引用

近江後藤氏についてはまだあまり研究が進んでおらず、古文書の調査によりまだまさ新事実が現れるのではないでしょうか?

この記事は 近江後藤氏の系譜 の要約です。

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